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繊研新聞連載 香川シームレス㈱軌跡

■香川シームレス誕生  
繊研新聞の2025年10月から上、中、下

《軌跡》香川シームレス『上』 ストッキング業界を支えて60年

創業者の金地繁雄は、香川県白鳥町(しろとりちょう、現東かがわ市)の出身。第二次世界大戦前に旧満州に赴き、満州電信電話公社に勤務した。大連から新京(現長春)へと計7年、若き日々を中国大陸で過ごした。終戦直前、軍隊の召集を受けた後、戦後は捕虜としてシベリアに抑留、3年近く強制労働で辛酸をなめた。

 1948年に帰国し、兄が経営していた金地メリヤスに入社する。往時の金地メリヤスは、その後エリザベスへと社名変更し、レッグだけでなくインナーウェア、手袋、水着へと事業を多角化していた。往時は、業界トップクラスの企業として上場も目指していたという。

繁雄は、大阪・福島区の社宅に住みながら、専務として17年間、財務関係の仕事を中心に担当した。ちなみに金地メリヤスはその後、ベルニットに社名変更、98年に資金繰りに行き詰まり、現在は姿を消している。

●編み機10台、社員4人の小所帯からのスタート

66年、繁雄はエリザベスから分離独立、郷里に戻った当初は、酒蔵を借ながら親会社へ生機(きばた)を販売する事業からスタートした。その後、今に至る香川シームレスを設立し、会社としての第一歩を踏み出す。編み機10台、社員4人の小所帯だった。

60年代はファッション化が一気に進んだ時代。“ミニスカートの女王”と呼ばれた英国人女優、ツイッギーの来日が大きな話題を呼び、ミニスカートに合わせたパンティストッキングの需要が爆発的に伸びていく。アツギがシームレスのストッキング、タイツの全国販売を本格化したのもこの頃だ。

 一方、同時期に生産面での大変革が起こった。それまでのストッキングはトリコット生地を縫製したバックシーム入りの商品だったが、丸編みのシームレス(縫い目の無い)400本編み機が主流になっていく。全国規模で新工場の建設や設備更新ブームが起こり、一時は100社を超える企業が生まれた。

●大型工場新設を決断

この頃から旧通商産業省(現経済産業省)は、中小企業の国際競争力強化を推進していく。繊維産業、そしてパンスト業界へも、中小企業のグルーピングによる規模拡大を目的に、資金調達の優遇をはじめとする様々なバックアップ策を打ち出し始めた。

この機を逃すまいと、繁雄は大きな決断を下す。旧トーメンや旧福助の指導を得て、約1万平方㍍の敷地にパンストの一貫生産工場を設ける計画だった。そして73年、現在の本社および本社工場のある飯山町に新工場が完成する。

パンストを生産していた旧工場は、ソックス生産を手掛けながら5年後に国分寺町に移転。編み機も増設しながら、生機を本社工場に送った。

さらに、84年には、染色・セット工程強化のために配送センターを併設した土器川工場、90年には編み立ての綾歌工場を新設するなど、次々と業容を拡大していった。

86年、創業20周年を見届けるかのように、繁雄は72歳で死去する。小さな町工場は、20年を経て、パンスト編み機400台、靴下編み機100台、従業員500人へと成長していた。

●円高、バブル崩壊後の危機

2代目社長には金地行雄(2025年11月逝去)が就任する。行雄は、短期間に企業規模を拡大した先代の父を思い返し、「本人は運が良かっただけと言っていたが、長年の財務知識に加え、『誰に対しても裏表の無い徳の備わった人だった』との声を数多く頂いた」と言う。

行雄は、父の勤務地であった旧満州の新京(現長春)で生まれた。終戦時は3歳である。父・繁雄が出征・シベリヤ抑留のなか、母と兄(帰国後5歳で病死)、6歳の姉と、日本に引き揚げてきた。学卒後、25歳で香川シームレスに入社し、専務として約17年間、父と仕事に携わってきた。社業を継いで、しばらくの間は、「創業者と比較されることも多く、責任の重さを痛感していた」と振り返る。

創業者が死去した前年、85年にプラザ合意がなされ、為替レートは1ドル240円から1年後に125円という凄まじい円高が進んだ。数年後にはバブル経済も崩壊し、銀行の合併、中小企業の資金繰りの悪化が相次ぐ。香川シームレスもその余波を受け、直後は大阪営業所、神戸ファッションマートのショールームの閉鎖を余儀なくされた。

 円高、バブル崩壊と紆余曲折はあったとはいえ、90年代まではアツギ、グンゼ、福助などが商品開発、販路開拓でしのぎを削った時代。“AGF”競争とも呼ばれ、業界に活気があった。

そして2000年代。パンスト業界を取り巻く環境が大きく変わり、同社の経営にも激震が襲うことになる。

《軌跡》香川シームレス『中』 ストッキング業界を支えて60年 主要取引先が破綻、立て直しに奔走

●人質のような感覚…

91年、販路多角化を狙いにレガルトを設立。01年は、靴下の海外生産拠点の確立のため、旧NI帝人商事との合弁で浙江省海寧に香川繊維を新設する。“生足ブーム”などで、ストッキング需要は、停滞していたが、時代変化に対応した施策を打ち出しながら、業容は比較的安定していた頃だ。

そして03年、主力取引先だった旧福助が民事再生法を申請する。香川シームレス全体の貸し倒れは10億円にのぼった。幸い、主力銀行や商社の協議がまとまり、“新生福助”が再建への道を踏み出す。企業再生ファンドのMKSパートナーズに事業が譲渡。直ぐに伊勢丹の名物バイヤーとして知られた藤巻幸夫氏が社長に就任したインパクトも大きく、新生福助が再スタートを切る。

 香川シームレスが長年にわたり、築き上げてきた品質や技術力などが評価を受け、福助との取引も継続することとなった。ひとまず胸を撫でおろしながらも、再建計画を下に立て直しに奔走する日々が続いた。社長だった金地行雄は、「希望退職の募集や手当の減額など、社員にも厳しい協力をお願いせざるを得なかった」と振り返る。

 当時、再建をバックアップした主要取引先の1社が旧NI帝人商事(現帝人フロンティア)。現社長の金地祐一郎は、97年から06年まで同社で勤務していた。「再建の道筋が固まるまで、“人質”のような感覚でした」と苦笑する。

 幸い、為替が苦境を救う一因ともなった。2000年代、対ドル相場は100~110円台で推移し、11年には80円を割るまでに至る。中国工場、香川繊維を軸にした靴下の輸入ビジネスを本格化していたことが大きな助けとなり、相応の利益を挙げることができた。ちなみに香川繊維は、創業から15年後、中国の急速な発展やコストアップなどを背景に、地元企業に譲渡する形でその幕を閉じた。

●設備投資は怠らず

 この間も主力のストッキングは需要の縮小が続く。女性の社会進出が叫ばれた80年代半ばの日本のストッキング・タイツの市場規模は約10億足だったが、カジュアル化などを背景に、この頃には3億足程度に。同社の国内生産も、創業20周年時に比べ、編み機・従業員共に半分近い規模まで縮小、編み機2240台、従業員200人となっていた。

 販売会社の(株)レガルトは、03年に東京営業所、06年に大阪営業所を開設するなど、新たな客先を掘り起こしていく。08年には、ゆめタウン三豊に初の小売店であるスパッソ三豊店(現在は閉店)を出店し、小売りビジネスにも着手した。

 市場全体の縮小傾向のなかで、16年には綾歌工場を本社工場に集約するなど、効率化やコストダウンを進めたが、その間もメーカーとしての設備投資を怠ることは無かった。09年には医療機器製造業の認可を取得し、独・メルツ社の特殊編み機を導入しながら、弾性ストッキングの製造委託業務をスタートする。

人手不足が表面化するなか、伊・ロナティ社の編み機、その中でも、かがり工程が省ける自動リンキング機能付きの新鋭機「SbyS」の導入も進めていった。

 海外市場にも目を向ける。中国の福清市四海通達貿易を代理店に、日本製レッグウェアの中国販売を進め、中国経済の発展と同時に、一時はかなりの金額となった。ECも楽天市場などを主に16年頃から本格化し、分母は少ないながらも、着実に伸ばしていく。

●3代目にバトンタッチ

創業50周年を迎えた16年。3代目社長に金地祐一郎が就任する。行雄は会長として伴走しながら、3年後相談役に退く。同時に祐一郎の弟で、現場の工場長をしていた金地晃司が専務となり、兄弟で力を合わせながら会社を運営していく体制が整う。

この間も、安価な海外製ストッキングの増加、カジュアル化、パンツトレンド、金融機関での制服撤廃、ストッキング着用規則の廃止など、逆風は幾つもあった。とはいえ、瞬間的な柄物ブームがあり、タトゥストッキング人気なども生まれた。レギンスやトレンカなどレッグ回りの派生商品もヒットした。インバウンド(訪日外国人)需要の初期には、日本製のパンストが人気を博した時期もある。厳しいながらも、それなりに安定していた時期であり、同社の売上高も10億円強の年が続いた。

そして、コロナ禍がやってきた。日本経済、繊維業界以上に、ストッキング業界の受けた打撃は大きい。フォーマルなイベントの激減、在宅勤務やテレワークの増加がストッキング需要を根本から揺るがす。日本靴下協会の統計では、19年から24年の5年間で、ストッキング・タイツの国内供給量は2億6000万足から1億3000万足に半減、うち国内生産は1億3000万足から4500万足となっている。同社も赤字を計上、借入金の増加に苦しんだ。年商は8~9億円まで下降、売上高が伸びない中で、原燃料費や人件費の上昇などが収益を直撃する。まさにコロナ下の数年間は耐え忍ぶ日々だった。

《軌跡》香川シームレス『下』ストッキング業界を支えて60年
自社ブランドやDtoCを育成

●技術・品質、対応力武器に

コロナ禍の痛手は大きく、ストッキング業界全体でも、ドラスチックな工場縮小が続いた。アツギがむつ事業所を閉鎖、福助が熊本工場の業種転換および鳥取工場の閉鎖、グンゼが中国・山東省の独資工場を清算する。中堅メーカーの破綻も続いた。

OEMを主とする同社も赤字や借入金に苦しむ。年商は8~9億円まで下降、売上高が伸びない中で、原燃料費や人件費の上昇などが収益を直撃する。「本当にドン底の日々でした」と祐一郎は苦難の日々を思い返す。

復調の兆しが見え始めたのが23年度(24年3月期)から。24年度は14億円に戻し、何よりも2期続けて増益、黒字を確保できた。市況が一定回復したこともあるが、コロナ禍以前から種まきしてきたことが、少しずつ実を結びつつある。

技術と品質、納期をはじめとするきめ細かい対応力など、国内工場ならではの力が香川シームレスの最大強みである。これを武器に、OEM(相手先ブランドによる生産)に真面目に取り組む姿勢は今も変わらない。ただ、特にコロナ禍以降、自販する力を持ち経営を安定させていくことが必須になった。自販力が無いと、OEMの商品供給責任も果たせない。また、自社ブランドの開発はOEMの力を磨くことにもつながる。レッグウェアに限らない多くの国内OEMメーカーと同様、同社の重点課題の一つが販社のレガルトと一体になった自社ブランドの強化、ECを中心とするDtoC(消費者直販)である。

 OEM先との競合を避けながら、既存の流通販路を開拓していくのは、なかなか難しい。同社もバッティングの少ないECを主とするDtoCに力を入れているが、この数年は年商5000万円規模で伸び悩んでいた。今年から、新たに外部コンサルティングを入れながら、コンテンツやSNS活用などの改良・改善を進めた結果、2024年は6000万円、2025年は7000万円を計画するなど、成果が着実に表れてきた。

楽天などのモールに加え、レガルトの独自サイトでの販売も本格化。メーカーの強みを生かした様々な着圧系の商品が中心になる。一般医療機器の製造販売認可を取得した、むくみなどに対応する高機能商品から、日常生活や睡眠時に対応した足に優しい着圧系レッグウェアまでを幅広く揃える。アイテムもレッグウェア以外のアームカバー、サポーター、インナーへと拡大中だ。

最近では、香川県小豆島の名産でもあるオリーブオイルを配合した段階着圧靴下、ランニングやトレイルランニングなどに向けた着圧ソックスやレギンスの「アクトサイク」などのほか、2025年8月にはフリーアナウンサー袴田彩会さんプロデュースのストッキングやスパッツ風ストッキング「オールマイン」も発売した。9月は和柄の着圧商品もデビューした。和柄の着圧商品は、240本の「SbyS」機を活用して独自の編み柄を表現したもので、特にインバウンド(訪日外国人)需要の多い店舗などを狙う。ストッキングの設備だけでなく、天然繊維使いのローゲージ編み機を生かした商品も、今後力を入れていく分野だ。

●不動産を収益化

上期(25年4~9月)は前期並みに推移しているが、食品をはじめとする物価高がレッグウェア需要与える影響はまだ不透明だ。「量より質への転換を進め、収益をどう確保していくか。売上高にこだわる必要は無い」と社長の祐一郎は言う。

収益力は一定回復してきたが、原燃料や物流、人件費の上昇は止まらない。コストダウンへの努力を休まず続ける一方、安定収益の確保のため、不動産物件の収益化を進めている。満濃工場跡地、レガルト高松営業所などに続き、今年7月には、レガルトの綾歌配送センターの機能を香川シームレス土器川工場に集約、綾歌配送センターを賃貸物件化する方針。土器川工場に物流を集約することで、煩雑な“横持ち移動”の手間も減る。

●人財の確保、育成がカギ

国内の中小メーカーの最大の悩みは、何といっても人財の確保。香川県の最低賃金も10月に上がった分を単純計算すると、1足1円近いコストアップになるとする。他産業との人財確保競合も含めた週休2日制も課題だ。65歳以上の雇用者も相当数おり、技術の継承を含めた世代交代も宿題になる。

 公式の満60周年は26年4月だが、60周年目として、社内のミニイベントなどを随時開催している。前社長、相談役の金地行雄は「誠実、協調、実行の3つを社是として掲げてきた。時代が変わってもこの基本姿勢を大事にしたい。『経営者は何年かで変わっていくが、会社は永遠に生き残って欲しい』という創業者の言葉を強く掲げ、次世代の人たちに頑張って欲しい」と力を込める。

 現社長の祐一郎も歴史の重みを感じている。今も一番の取引先は福助だが、初代は同級生が旧トーメンにいた関係で、トーメン経由での福助との取引が始まった。現在の福助は、豊田通商の子会社となっているが、豊田通商は、トーメンを吸収合併した会社でもある。  「コロナ禍の苦境はようやく抜け出した。それでも初代、2代目と、厳しい中でもメーカーの根本である設備投資を続けてきたからこそ、新しい芽を育てることができている」。70年、80年に向けた種まき、新たな時代への挑戦が続く。

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